I love カオス

石持浅海さんのデビュー20周年記念作品、『高島太一を殺したい五人』を読んだ。

(2022年、光文社)

あらすじ

小学生連続殺人事件の犯人が教え子・枝元絵奈だと確信した塾講師・高島太一は自らの手で彼女を殺害した。彼の犯行は完璧だった。五人の人間に目撃されたことを除いては。

一か月後、事件の目撃者であり高島太一の同僚の松木真桜と川瀬奏音は群馬の山中にある研修所を訪れた。塾が主催するサマーキャンプの準備のために単身で前乗りした高島太一を殺害するためだ。

しかし、研修所には本来いるはずのない同僚たち-檜垣兵吾、須之内すみれ、中森直哉-の姿があった。三人もそれぞれ高島太一の犯行を目撃し、それぞれの動機で高島太一殺しを決意していたのだった。

肝心の高島太一は、既に昏倒している。息は、ある。

事故か、事件か、はたまた自殺か。

事故ならば、このまま放置するべきか。それとも、とどめを刺すべきか。

事件ならば、一体誰の仕業なのか。殺意を共有したにもかかわらず、犯人は何故名乗り出ないのか。

“高島太一を殺したい五人”が意識を失った高島太一を囲んで“最善の殺し方”を議論していくブレインストーミング・ミステリー。

 

 

ディスカッションが大半を占めるという点では過去作の『セリヌンティウスの舟』と共通している。『セリヌンティウスの舟』は自殺として処理された仲間の死を残された者たちが議論し検討するという話だったが、今作では五人の殺人者が捕まるリスクを回避した上で全員の目的を達成するために議論を重ねている。その点では、できるだけ多くの人間を殺すための計画を立案・実行する『二千回の殺人』と雰囲気が近い。それらの作品と同様に、目的達成(真実の追求)の場に第三者(警察や探偵)がいないからこその結末が描かれている。法の下の善悪に縛られない結末は、時として私の価値観に揺さぶりをかける。真実は究極的には当事者だけのものだと気づかせてくれる。

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中盤のキッチンシンクについてのやり取りには引っかかるものがあったが、“話し合い”という究極にロジカルな物語を堪能できた。ヒントが隠されている表紙にも注目だ。

 

 

私が石持浅海さんの作品に強く惹かれるのは、彼が紡ぐ物語がカオスだからだろう。

『相棒』の輿水泰弘脚本にも通じるものがある。

『高島太一を殺したい五人』は五つの殺意、四つの殺害計画がかち合うところから始まるのだが、『相棒』で犯行がかち合う話といえばシーズン4の「桜田門内の変」が挙げられる。

桜田門内の変」では殺人鬼が所持していた青酸カリが押収前後に三人の警察関係者の手に渡り、邪な気持ちを抱いた彼らがそれぞれ別の方法で捜査一課の名物刑事殺しを企む。ところがこの刑事は強運の持ち主で、三人が庁舎内に仕掛けた青酸カリは彼ではない別の警察関係者の命を次々と奪ってしまうという、かなりカオスな間違い殺人が発生する話だ。

この一筋縄ではいかないカオスは『高島太一を殺したい五人』でいうところの「殺そうとしていた高島太一が既に死にかけている」や「証拠を残さないために誰もスマートフォンを持ってきていない」という状況に共鳴するだろう。

犯行がかち合うことは偶然が過ぎるとも思えるが、いずれの作品でも「絶好のチャンスが巡ってきたから」という理由付けがなされている。そのあたりの抜かりの無さにしみじみと面白さを感じつつ、やはりカオスを楽しむためにはカオスを享受する心が必要であることを実感した。

 

また、石持作品のキーワードである(と私が勝手に思っている)「絆」は、輿水泰弘が描く共同体とも通じているように思える。

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石持さんは、法とは異なる規範を持つ人たちを当事者目線で描き切ることで読者に衝撃を与え、輿水さんは、そういった人たちを法の下の正義の体現者である杉下右京と対比させることで視聴者に衝撃を与えている。

 

時として理解できないことすらある彼らの作品は、密室などの状況がもたらすカオスや展開・結末の斬新さという共通点をもって、私の中では親和しているのだ。

 

 

<了>