忘れてはまた、新鮮に驚く。

ゼミのレポートを書き始めてから、気がつけば一か月。

小二の頃から「宿題は帰ったらすぐ済ます派」だった私にとって、課題を後回しにして長期休暇の前半を過ごしたことはアウトローな体験だった。

書くべきことが決まるまではやる気が出ないし、決まったら決まったで「まあ、まだ大丈夫」と謎の余裕が生まれる。進捗は日によってまちまちだったが、提出日まで数日を残して、なぜか急激にレポートは完成した。

「〆切」は、破ったことがない者に対しては絶大な効果を発揮するらしい。

Z会の提出目標日は破りまくっていたのに。自分でも不思議だ。

 

レポートにかかりきりだったおかげで、休みが終わる絶望感を味わわずに済んだ。

ギリギリまで課題に取り組むことの数少ないメリットかもしれない。

 

前回に引き続き、レポートでは星新一作品と中国怪奇譚の比較を行なった。

星新一のエッセイ集『きまぐれ読書メモ』には岡本綺堂訳『中国怪奇小説集』を取り上げた章があり、そこには「中国怪談はつとめて読んできた」という記述がある。

しかし、具体的な書名は挙げられておらず、公式HPや評論の記述から確実に読んでいたと判断できる『聊斎志異』でさえ、レポートで取り上げるためには60年以上前の雑誌「宝石」を確認する必要があった(孫引き、ダメ。ゼッタイ)。

 

「宝石」誌は途中で版元が変わっており、データベースでの検索は地味に難儀だった。おまけに、私が通う大学の図書館には該当する製本雑誌は所蔵されていなかった。

煩雑であろう手続きをしない限り、私が「星新一が読んだ中国怪奇譚」としてレポートで取り上げることができるのは『中国怪奇小説集』だけ。要するにそういうことだ。

 

ちょっと頭を抱えた。A4三枚が最低ラインのレポートなら『中国怪奇小説集』だけでなんとかなるかもしれないが、私は卒論でも星新一を扱う予定なのだ。

 

そんな時、この本の存在を思い出した。

『きまぐれ星からの伝言』(2016年、徳間書店)-星新一生誕90周年を記念して刊行されたバラエティブック。編者である牧眞司氏が選りすぐったショートショート5編のほか、初収録のエッセイ・翻訳・インタビュー等を読むことができるファン必携の一冊。

 

発売当時すでにいっぱしの星新一ファンだった私は、もちろん発売直後にこの本を買って読んでいた。刊行を記念して新宿の紀伊國屋書店で開催された「星新一が可愛がっていたクマのぬいぐるみと握手できるイベント」への参加も本気で考えていたが、体育祭の翌日でダウンしていたか何かで結局叶わなかった(我が中学校の体育祭は昨今のスクール・コンプラなら抵触してもおかしくないほどハードだった)。

 

星新一の没後に生まれた私にとって、この本や『さあ、気ちがいになりなさい』(ハヤカワ文庫SF)が刊行された2016年は、初めて星新一の「新刊本」を買った、忘れがたき年である。

ミリタリックな中学校生活を乗り越えられたのは、間違いなく星新一のおかげだろう(もちろん『相棒』も)。

 

久々だからか、どうもセンチになってしまう。話を戻そう。

昨年、レポートを書くにあたって『きまぐれ読書メモ』以外のエッセイ集はあらかた読み返していたのだが、この本に収録されているインタビューの類は迂闊にもチェックしていなかったのだ。

藁にも縋る思いでページをめくると、驚くべきことに、インタビューでは佐藤春夫訳の中国童話に言及しているし、幻想文学についてのアンケートでは『中国怪奇小説集』や『聊斎志異』のみならず、私が先月購入した『子不語』の名を挙げているではないか。

一度読んでいるのだから「驚く」も何もないのだが、ちょっと頭を抱えた。

 

おそらく当時の私は、『聊斎志異』や『子不語』の読み方がわからずに、字面を追うだけで読んだ気になっていたのだろう。記憶に残っていなかったとしても無理はない。

ましてや、中一の私が大学で中国文学のゼミに入ることを予期するなんて無理な話だが、昨年にこの本の存在に思い至ってさえいれば、レポートへの不安や参考文献入手のためのあれこれは、いくらか軽減されていたはずだ。ああ、灯台下暗し。

 

まあ、今気づけて良かった。扱える中国怪奇譚や参考文献は増え、今回のレポートはかなりのボリュームになった。結果オーライだ。

 

それにしても、星新一と中国怪奇譚との接点を忘れた状態でたまたま中国文学のゼミに入り、星新一と中国怪奇譚の共通性に「気づく」なんて、とんでもない奇跡じゃないか。

 

星新一パワーで、このまま突っ走りたい。

 

 

結果的に大嘘を吐いてしまったことになる。

 

 

<了>