うんめいかんじるねえ みしみし

私の間抜け面がとうとう広報誌に載ってしまった。

五月に受けた取材はどうやら本物だったらしい。

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友人の案を拝借して、私は「最近の発見」として「漢文楽しい」と書いた。

漢文が楽しいのは事実だが、こういうことを公表してしまうと、中国文学に刻苦精励取り組む義務のようなものが発生してしまうのではないかという懸念があった。

 

取材から二か月後。七月某日。

点呼を終えたゼミの先生が「そういえば広報誌に載ってましたね」と私たち三人に言った。

「なんか面白かったですよ」と言って、先生は広報誌を出して見せてくれた。

そこには確かに私たちが写っていた。

何が面白かったのかはわからないが、よりによって「漢文楽しい」という文言を中国文学のエキスパートに見られてしまった。

幸い、その時の私と写真の中の私が同じ服装だったことに気付いた人物は私以外にはいないようだった。

だが、私が中国文学に刻苦精励取り組んでいかなければならないのは確かなようだ。

 

ここ一か月は、ゼミのレポートに取り組んでいた。

テーマはわりあい早く見つかったが、内容の検討のために星新一ショートショートを全て読み返す必要が出てきたのだ。

小六から中二までを星新一に捧げてきたので、著作はほとんど家にあった。

『祖父・小金井良精の記』の上下巻と『海竜めざめる』、『フレドリック・ブラウン傑作集』は最近ようやく手に入れたところだ。

だが、一度読んだ本は基本的には読み返さないので、星新一ショートショートを読むのは本当に久しぶりだった。

エッセイや中・長編を除くショートショートをざっと読み返し、テーマに適うものには目印を付ける。

それを繰り返した。

この期間だけ机が文学者然としていた。

捨てられずにいた「相棒カード」の端材がしおりとして役に立った。

単行本からもはみ出すサイズなので実に便利だった。

 

そんなこんなで、一応は読み返すことができた。

やっぱり、星新一は面白い。

読み始めてからすぐに、オチを思い出す話もかなりあった。最後に読んだのは五年以上も前だというのに。

 

参考として買った『星新一の思想』という研究書を読んでいたら、テーマに適う記述を見つけた。私の直感は間違っていなかったというわけだ。

その節では『きまぐれ読書メモ』の一節が引用されていた。

『きまぐれ読書メモ』は星新一のエッセイ集の中で唯一文庫化、電子書籍化がされていないレア本で、私が唯一持っていない星新一の本でもあった(単著という意味であり、訳書や編書、関連書籍にまで手を広げると、『トマニ式の生き方』、『森田拳次のヒトコマ・ランド』、『怪奇の創造』、『星新一の世界』など持っていない本はまだまだある)。

孫引きはよろしくないらしいので、『きまぐれ読書メモ』を手に入れる必要が出てきた。

前に神保町の古書店で探したことがあったが、そのときは気配すら無かった。

おまけに、昨年メルカリで見かけたものも売り切れていた。

高いと言わずに買っておけばよかった。

 

万事休すかと思われたが、よくよく調べたらアマゾンに何点か出品されていた。

当然ながら安いものは商品状態のランクが低く、商品状態のランクが高いものは値段も高かった。

帯に短したすきに長し。

私は安い方を選んだ。出品者レビューに賭けた。

 

なんと翌日に現物が届いた。超迅速。

詳細は全部読んでからにするが、想像していたよりも状態は良かった。

早速、件の節を読んでみた。

当然のことながら引用されたものよりも情報量があり、買った甲斐があった。

 

それから約二週間後、ホシヅルの日にレポートを終えることができた。

レポートは家を出ない絶好の口実だったので、終わってしまってなんとも複雑な気持ちだ。

寂しい、切ない。そもそも、レポートの出来はこれで良いのか。

休み明けのゼミまで、このそわそわは続くだろう。

 

 

星新一に憧れてショートショートを書いたこともあった。

大学では小説家養成ゼミに応募し、見事に落ちた。

深く考えずに入った中国文学のゼミで、星新一の研究をすることになるとは。

これを運命と言わずして、何と言おう。

 

レポートが終わったので、やっとテキトーなことが書ける。

おりゃ。

 

 

<了>