あなたは大学生です。
あなたは大教室で授業の開始を待っています。
しばらくすると教授がやってきて、誰もいない前方の机に紙束を置きました。
その紙は出席票です。
学生は授業前にその紙を一枚取ることになっています。
既に、紙を取るための列ができています。
あなたは適当なタイミングで列に入りました。
着々とあなたの番が迫ってきています。
今です。
紙を一枚取りなさい。
手汗かきの数少ないメリットは紙をスムーズにめくれることだ。
ところが今日に限って、手が乾いている。
後ろからのプレッシャーに押された私は、確実性を捨てて紙を取った。
案の定、出席票は重なっていた。
紙を戻したいが既に列から外れてしまっている。
私は、その紙を近くで並んでいる人に譲ることにした。
余ったその紙を次回に使うという発想はその時の私にはなかった。
私は何も考えずに、そして何も言わずに近くにいた女性に紙を差し出した。
令和の大垣勘太が降臨した。
念のために言っておくが、決してナンパなどではない。
何も言わなかったのは、何も言わなくても私の意図が通じると思ったからだ。
スーツに身を包んだ年上らしきその人物は、だいぶん困惑しながらもその紙を受け取った。
あなたは今、困惑していますね。
きっと「ありがとうございます(ちょっとハニカミ)」なんかを期待していたのでしょう。
ナンパであろうがなかろうが、それが人情というものです。
しかし、あなたの期待は裏切られた。
彼女にしてみれば、あなたが差し出した出席票はナイフのように突然なシロモノに見えたことでしょう。
ひとり映画デビューを果たしたばかりのあなたは、調子に乗ってしまったのです。
私は調子に乗っていた。
騙されまい騙されまいとしてきたのに、結局フィクションという幻想に拐かされてしまっていた。
世間一般が大学生に抱くイメージというのは大抵美化されている。
遊び呆けている人間は睡眠時間と単位を犠牲にしているはずだ(そうでなきゃ割に合わない)。
痛みなくして得るものなし。
今週の読了本
石持浅海さんの『彼女が追ってくる』-碓氷優佳シリーズ第三弾。
旧知の経営者仲間が集う「箱根会」の夜、中条夏子はかつての親友・黒羽姫乃を殺した。愛した男の命を奪った女の抹殺を自らの使命と信じて。証拠隠滅は完璧。さらに、死体が握る〝カフスボタン〟が予想外の人物へ疑いを向ける。夏子は完全犯罪を確信した。だが、ゲストの火山学者・碓氷優佳は姫乃が残したメッセージの意味を見逃さなかった。最後に笑う「彼女」は誰か・・・・・・。
-裏表紙より引用
先の二作とはまた異なる、特殊な倒叙ミステリ。
死体が握るボタンは、本来そこにはあるはずがないものだった。
殺人者・中条夏子はその状況が自分の破滅に直結するのかどうかを見極めるべく、期せずして探偵役を担う。
場をコントロールしながら、ボタンの謎を考える夏子。
仲間の面子のために通報に猶予を設ける「箱根会」のメンバー。
彼らと利害関係にない碓氷優佳は、独自のルールで真実に近づく。
優佳の鋭く光る“冷たさ”がクセになる。
倫理観の揺らぎは石持作品に通底するテーマなのかもしれない。
今のところ、碓氷優佳シリーズではこの作品が一番好きだ。
あと三冊、楽しみ。
昨日、横溝正史シリーズに衝撃を受けてミステリ作家になったというツイートをしたけれど、じゃあ、作品に影響が出ているかと言われると、微妙だ。おそらくは、星新一さんの影響の方が絶対的に大きい。
— 石持浅海 (@Ishimochi_Asami) 2023年4月16日
星新一さんをほぼ読破した人間からすると、これは運命としか言いようがない。
<了>