株式会社 振り子の残骸

一列にぶらさがった振り子がカチカチとぶつかる装置のことを「ニュートンのゆりかご」というらしい。理科の時間に習ったのかもしれないが、まったく記憶にない。

だが、私はかつて、この装置を持っていた。

中学生の時、部活の遠足で行った科学館で買ったものだ。手のひらサイズではあるものの、中学生にも手が届く値段にしてはかなりよくできていた記憶がある(鉄球衝突の反動で台ごと動いてしまうため、振り子の揺れが長続きしないという欠陥はあったが)。

別アングル

既にお気づきの方もいるだろうが、これらの画像に写っている鉄球と糸は偽物である。

 

実際の姿は、こちら。

アイデンティティたる鉄球と糸は影も形もない。

だが、わずかに確認できる溝が在りし振り子を感じさせる。

 

遡ること七年。私は「ニュートンのゆりかご」を買い、翌日に壊してしまった。

規則的な運動に飽きて新たな遊びを模索しているうちに、振り子が再起不能なまでにこんがらがってしまったのだ。

今思えば、百均に売っている虹色のバネや夏祭りの露店でもらえるヨーヨー(風船じゃないやつ)の類を一週間もたせたことはなかった。欲しがるくせに。

 

断腸の思いで振り子を切り離した私は、残されたモノのあまりに無惨な姿に心を痛め、もう二度と「紐・バネ系」には手を出さないことを誓った。

贖罪の気持ちを込めて、「残されたモノ」にはブックスタンドとしての再就職を斡旋した。自分でやっといてなんだが、かなり便利である。

 

そしてこの度、新たな用途を発見した。

単行本(ソフトカバー)

長辺を下にして、開いた本を差し込むと、ブックストッパーになるのだ。

 

レポート等で紙の本から引用するとき、これまでは開いた本を押さえながら片手でタイプしていた。無論、ブックストッパーなるものの存在は知っていたが、「わざわざ買うのもなー」とか「跡つきそうだなー」とか思ってスルーしていた。

 

だが、私のは実質タダで跡もつかない。

単行本(ハードカバー)

しかも、しおりを挟んだままでも使えて便利だ。

 

文庫本

極めつきは、単行本と同じように文庫本にも使えること。文庫本からの引用が多いので、個人的にかなり助かる。

あまりにも分厚い本は差し込めないが、例えば、棒を伸縮できるようにすれば解決するだろう。

 

よし、これも何かの縁だから、特許取得&起業で一儲けだ。

www.jpo.go.jp

と思って調べてみたのだが、どうやら特許を取るにもお金がかかるらしい。当たり前か。

よし、やめた。この程度のアイデアならとっくに誰かが出してるだろうし。

と、負け惜しみを言っておく。

 

ともあれ、振り子の残骸を持て余している方がいらしたら、ブックストッパーとして使ってみてくださいな。

 

 

今週の読了本

譚璐美 著『父の国から来た密使』-学校では教わらない歴史ドラマ。

(1997年、新潮社)

カバー写真には四人の男性が写っている。右側が上から、マッカーサー蒋介石周恩来。左側に写っているのが、この本の中心人物である陸久之。

衝撃と感動の歴史ドラマ!

一九五〇年、春。「私」が生まれたばかりの家に父の友人がやって来た。その男・陸久之は中国共産党からの三つの特命を帯びた「密使」だった――。

史実に埋もれ、記憶の奥底に沈んでいた男の生涯を蘇らせ、日中関係の知られざる側面に光をあてた衝撃の歴史秘話!

-帯より引用。

 

忘れた頃にやってくる配布図書シリーズ第四弾。

これで、大学の図書館から頂戴した本はすべて読了したことになる。

「頂戴した」と書いたが、別に盗んだわけではない。保存期間の過ぎた本が配布されていたので貰っただけだ。

だとしても「四冊」は貰い過ぎたかもしれない。隠しきれない、さもしい根性。

まあ、配布期間の終了間際だったわけですから、見逃してください。

 

それにしても、配布図書ってどのような素性の本なのだろう。

この本もそうだが、新品みたいに帯がついているものが多かった。はがきや短冊が挟まっているものもあった。

貸し出されずに保管されていた本なのかとも思ったが、帯つきなのに書き込みがされている本もあった。通常の貸し出しではなくて、研究室に置かれていた本なのだろうか。

 

それはさておき。

これまでに読んだ三冊の配布図書と同様に、この本もノンフィクションだったのだが、ルポルタージュでも史料集でもなかった。

歴史ノンフィクションである『伊藤律と北京・徳田機関』とは、伝記的であることや描かれている時代が共通していたが、『父の国から来た密使』には『伊藤律~』と異なる大きな特徴があった。

 

それは、小説形式であること。

『父の国~』は序章と終章を含めた19の章で構成されている。陸久之の来日から、彼と譚錚(著者の父)やその妻、生まれたばかりの著者との交流、密命とその「ひとつの結末」までを、陸久之や譚錚を主人公として綴ったパートが主としてあり、そこに時折、「私」が陸久之を調べ始めたきっかけや調査の過程、「真実」を綴ったパートが差し込まれる。

過去と現在が交錯する構成は、まさに歴史「ドラマ」を観ているかのようであった(帯文に「ノンフィクション」という語が用いられなかったのはこのためかもしれない)。

 

著者はあとがきで、こう述べている。

 ノンフィクションとは、証拠を駆使して克明に事実を記すことだという人がいます。厳密な枠組みにこだわれば、この本はノンフィクションの範囲を逸脱していると捉える方もいるでしょう。

 私自身は、これは今もかすかに残る過去の事実の痕跡を探し求めて遍歴した、私の心の記録だと思っています。

-292頁、293頁より引用。

現在はどうか知らないが、少なくとも2000年以前には小説形式のノンフィクションというのは珍しかったようだ。

正確さを取るか、読みやすさを取るか。「ノンフィクションはこうあるべきだ」と今この場で論じるつもりは毛頭ないが、私にとって『父の国~』の読みやすさはかなり衝撃的だった。

その前に読んでいた『伊藤律~』がいかにもといった感じのハードな本だったこともあるが、それぞれの話し方等から人物のキャラクターがつかみやすいことや、地の文での解説以外にも当事者の「セリフ」を通して当時の国際情勢が説得的に理解できることなど、小説形式ならではの利点もかなりあるようだ。

 

だが忘れてはならないのが、著者が単に「読みやすさ」のために小説形式を採用したわけではないということである。先の引用にもあるように、著者は「当事者」のひとりであり、父親をはじめとした関係者の証言や文献などから陸久之の過去を辿る行為は、結果として著者自身の過去を辿る「旅」の記録になっている。そこに、小説形式を用いる必然性があるように私には思えた。

 

配布図書という形で普段は読まないジャンルの本を手に取ったことで、この世には出会いきれない数の人生があることを改めて思い知らされた。

文庫化はされていないようだが、興味のある方は是非。

 

 

<了>