小学生の時、私はよく貧血を起こしていた。
全校集会の度にとまでは言わないが、人並み以上には保健室に搬送された記憶がある。
薬品くさくてキシキシするベッドに身を横たえると、養護教諭は定句を投げてくる。
「昨日は何時に寝たの?」
低学年の私が素直に「十時です」と答えると、彼女は無関心にほんの少しの優越感を交えながら「もう少し早く寝なさい」と私を咎める。
子どもながらに理不尽だと思った。
十時に寝て倒れるのなら、今頃全国の保健室はパンクしているはずだ。
隣のベッドには、私と同じく貧血で運ばれてきた高学年の生徒がいた。
彼は「九時に寝た」と誠実そうに答えていた。
私は鼻白んだ。
私は素直であり、素直ではなかった。
中学に上がる頃には、貧血になることはなくなっていった。
しかし、全くなくなった訳ではなかった。
保健体育の授業で性感染症について学んでいた時、私は貧血を起こした。
中三の時のことだ。
座ったままで貧血を起こしたのは初めてだった。
しゃがむという対処法が通用しないことは私にとって脅威だった。
なぜか野球部のY君におぶられて、私は保健室に運ばれた。
人当たりが良く、それでいておせっかいな養護教諭は私を勝手に労ってくれた。
彼女は貧血の原因を受験勉強に求めたようだった。
私にはそうとは思えなかった。
「性感染症」という話題が原因だとしか思えなかった。
その後、総合の授業で似たような内容の講演会があった。
その時も私は貧血を起こした。しかし、なんとか堪えた。
性の話題で倒れるのは、なんだか恥ずかしかった。
普段は健康そのものなのに、特定の話題には弱い。
その性質は、その後も変わらなかった。
高校生の時も三回ほど危機に瀕し、なんとか堪えた。
しかし、新たなことも分かった。
三回の貧血のうちの二回は「性感染症」の授業ではなく、「応急救護」に関する座学だった。
スポーツ中に起きた事故に関する映像を見ている時、私は貧血を起こした。
映像はかなり長く、いよいよ堪えられなくなってきた。
その時、クラスメイトの一人が自己申告をして席を外した。
彼女も私と同じ側の人間だった。
親近感を覚えたものの、流石にそんなきっかけで話しかける訳にはいかない。
彼女は私よりもその手の話題に弱かった。
人形を用いた心肺蘇生の実習もリタイアしていた。
私は平気だった。
結局、彼女と会話を交わすことはほとんどなかった。
つい先日、久々に貧血を起こした。大江健三郎の『芽むしり仔撃ち』を読んでいた時だ。
大戦末期、山中に集団疎開した感化院の少年たちは、疫病の流行とともに、谷間にかかる唯一の交通路を遮断され、山村に閉じこめられる。この強制された監禁状況下で、社会的疎外者たちは、けなげにも愛と連帯の〝自由の王国〟を建設しようと、緊張と友情に満ちたヒューマンなドラマを展開するが、村人の帰村によってもろく潰え去る。綿密な設定と新鮮なイメージで描かれた傑作。
-裏表紙より引用
電車でこの本を読んでいたら、狂犬病の話題が出てきた。
私は一旦本を閉じた。
その時には私の弱点が「性感染症」ではなく「接触感染」であることが分かっていた。
しかし、貧血というのは一度そういうマインドになってしまうと挽回は難しいものだ。
他のことを考えても、目を瞑っても降下した血液は昇ってこない。
少なくとも私はそうだ。
私は途中下車した。
本の残りは家で読んだ。悲しいだけの話ではなかった。
創作でもダメとなると、私はどうしたらいいのだろうか。
そのうち、自由に貧血を起こすことができるようになるかもしれない。
そうなったら特殊能力だ。クソが。
<了>