私の家には『椋鳩十全集』があった。
もしかしたら、今もあるかもしれない。
全集は全二十六巻らしいが、私の家には十二巻までしかなかった。
どうやら、第一期が全十二巻らしい。
小学五年の時から数年をかけて、私は十二巻もの『椋鳩十全集』を読破した。
一日に一章ずつ、読んでいった。
その読書は義務的なものであり、今している読書とは違っていた。
きっかけは、授業で「大造じいさんとガン」を習ったことだった。
そのことを家で話したところ、全集があることを知らされ、読むことになったのだ。
義務的だったとはいえ、今でも印象に残っている物語もあった。
犬がトラバサミにかかって死んでしまう話では涙したし、対岸の火事で尻を温め、鼻くそを茶請けにするケチな山伏が登場する『日高山伏物語』では大いに笑った。
二段組で函入りの本たちは、カビのにおいと共に私の記憶に残っている。
レイモンド・チャンドラーの『ヌーン街で拾ったもの』という本を読んだ。
ブックオフで買った。かなり昔の本だ。
「マーロウ矢木」のこともあり、チャンドラーの作品はいずれ読もうと思っていた。
とはいえ、カッコつけたのも事実だ。こういう本には憧れがあった。
しかし、家に帰ると微かな後悔がやってきた。
ポーやドイル、クリスティはちまちま読んできたが、正直海外小説にはまだ抵抗があった。
中学生の時にカッコつけて『ローマ帽子の謎』を読んで痛い目を見たからだ。
さあ、今回はどっちだ。
あらすじ
ヌーン街は暗く、人影がなかった。ピート・アングリッチは一軒の戸口に身をひそめ、若い女の様子をうかがっていた。その女はアパートの壁にぴったりと身体をつけている。街灯からもれるかすかな光は、女のみすぼらしい身なりと横顔を照らし出していた。どこかで、時計が八時をうった。と、一台の車がゆっくり曲り角から現われた。女は車をみると、いきなり舗道にとび出し、アングリッチの方に走ってきた。車の弱いライトが、女の姿を捕えようと追跡をはじめた。そのとたん、アングリッチは戸口からとび出し、女の腕を捕えて暗がりにひきずりこんだ。車は二人の前をゆっくりと走りすぎた。だが――車は舗道に乾いた音をたてて、包みを落していった。それを見た女は急におびえはじめた。そして、アングリッチが暗がりから出て、その包みを拾おうとしたとき、背後で拳銃が光った――ピート・アングリッチは罠にかかったのだ!
いまは亡きハードボイルド派の巨匠、チャンドラーの傑作四篇を収録した中篇傑作集! 完訳決定版!
-裏表紙より引用。
おそろしく長いあらすじは表題作のもの。今作には表題作の他に「殺しに鵜のまねは通用しない」、「怯じけついてちゃ商売にならない」、「指さす男」の三篇が収録されている。
「殺しに~」では依頼人殺しを、「怯じけついてちゃ~」ではとある女の身辺を、「指さす男」ではカジノでの裏取引を、私立探偵が調査する。「殺しに~」と「怯じけついてちゃ~」にはジョン・ダルマスが、「指さす男」にはフィリップ・マーロウが登場する。
読んでみるとかなり面白かった。探偵のあり方が今とは違い、拳銃での人死や銃撃戦も多発する。表題作の主人公、ピート・アングリッチは潜入捜査官なのだが、普通に発砲する。そして、通報もしないで自分の仕事を続ける。道中で襲われて、濡れ衣を着せられたりもする。他の三篇でも銃撃、襲撃、追跡の連続。かと思えば、しっかりと頭を使う場面もあったりして、読み進めていくほどに面白さが増していった。
「切断された脚のような気分」や「日記に書くほどのことではない」というような端々の表現も面白かった。若竹七海さんの「葉村晶シリーズ」にも相通じる面白さがあったが、これがハードボイルドというものなのだろうか。
拗音、促音を表す小文字が全て大文字になっていて、それも新鮮だった。
意外と読める。
面白い誤植もあった。
『椋鳩十全集』にも「ぽ」が90度転回しているという誤植があった。
こんなの初めて。
二段組で図書室のにおいがする本は、新たな読書体験をもたらしてくれた。
<了>