『相棒』と共同体

『にっぽんコミューン』という本を読んだ。

 

(アサヒグラフ編、1979年、朝日新聞社)

図書館の配布図書コーナーからいただいたものだ。

奇妙なタイトルと、内容を全く窺い知れない表紙に心惹かれた。

パラパラとページをめくると白黒写真が多く目についた。

どうやらルポルタージュの類らしい。

普段は読まないジャンルだが、この出会いを大切にしたいと思った。

 

というのは嘘だ。

この本に心惹かれたのは事実だが、持って帰ろうとまで思ったのはタダだったからだ。

廃棄される本を貰って読む。スーパーSDGsだ。サンキュー配布図書。

 

我が家にやってきた『にっぽんコミューン』は半年間放置されていた。

タダの副作用。生き物じゃなくてよかった。

このままじゃ一生読まなくなるので、一念発起して読んでみた。

「コミューン」というのは「共同体」に近い言葉らしく、この本は日本各地の共同体を取材した連載をまとめたものだった。

14の共同体が取り上げられていた。

文明に頼らない生活を営む『ザ・ノンフィクション』的な若者たちから、確固たる目的や主義を掲げる人たちまで様々だった。

 

かつて友人に「将来、ヒッピーか仙人になりそうだ」と言われたことがある。

私は何も考えていない割に落ち着いているだけであって、確固たる信念もなければ山籠もりの願望もない。

まして浦島太郎になるリスクを負ってまで今の生活を捨てる覚悟など無い。

 

『にっぽんコミューン』を読んだことで共同体に対する理解が深まった。

やむを得ない事情や成り行きで生まれた共同体があること、精神的共同体だけではなく合理的にお金を稼ぐための共同体もあることを知った。

小さな共同体は大きな社会へのカウンターではなく、「より良い生活」を模索した結果だったのだ。

 

覚悟を持った人間は浦島太郎にはならないのだろう。

現に、この本で紹介されている共同体の多くは今も存続している。

 

取材者はもちろん共同体の人間ではないので、共同体に対する懸念点なども述べられている。

例えば、生活リズムや人間関係の均一化が住人の性質をも均一化してしまうことや、共同体で生まれた子どもの将来についてなど。

共同体の外に巨大な競争社会が厳存している以上、この問題はいつまでも付きまとうだろう。

 

『相棒』にも共同体が登場する話がいくつかある。

新世界より」(脚本・金井寛)にはSNSによる誹謗中傷に心を痛めたIT企業の創業者が、山を購入して賛同者とともに始めた反文明の共同体が登場した。

この村で生まれ育った子どもたちは創始者が著したディストピア小説を歴史書として与えられていた。

その小説の舞台はパンデミックが起きて荒廃した2070年の地球であったため、村から迷い出た少年少女がタイムスリップをしたと思い込み、パンデミックを止めようと事件を起こす・・・。という『相棒』の中でもかなりぶっ飛んだ話だった。

 

誤った歴史を教えられた子どもが現代社会に放り出されたとき、何が起きるのか。

オオカミに育てられた子どものように対応できずに死んでしまうのか。それとも・・・。

新世界より」では言葉が通じる人間同士であること、タイムスリップしたと思い込んでいることが作用してか、村から迷い出た彼らは現代社会にすばやく適応していった。

そのあたりのリアリティは検証のしようもない。

 

文明を持たずに暮らすことは個人の自由だ(口で言うほど容易くはないが)。

問題は、大人たちが自分に都合の良い教育を村で生まれた子どもたちに施していたことである。

共同体で生まれた子どもたちの立場の難しさが描かれていた。

 

輿水泰弘脚本作品にも共同体や、それに準ずる集団が登場する。

「森の中」「猛き祈り」の“まろく庵”や、「アレスの進撃」前後編の“信頼と友好の館”などだ。

「ビリーバー」の“火の玉大王”とそのリスナーたちや、「13」前後編の“ながとろ河童塾”も共同体と言えなくもない。

いずれの話でも共同体による犯罪が描かれているが、共同体と犯罪組織はもちろん違う。

犯罪組織は犯罪を目的としているのに対し、共同体による犯罪は手段である場合が多い。信仰を守るため、裏切者に制裁を加えるため、などだ。

ドラマとしては舞台を共同体にすることによって、無理筋に思える動機に説得力を持たせたり、逆に「理解できなさ」を強調することができるのだ。

 

「森の中」「猛き祈り」では現行法成立以前から存在する即身仏信仰と、法の下の正義の対立が描かれた。

即身仏になることの手助けは自殺幇助罪などにあたる。

警察は罪を暴くために土中の仏を掘り出すことができる。

法的には正しい行為でも、見方によっては死者への冒涜にあたる。

最終的には仏は掘り出されず、妥協的な結末になっていた。

フィクションであっても(だからこそ)、伝統的信仰・価値観の否定は難しいのだろう。

 

フィクションで共同体を描くことは現実の共同体に対する偏見を助長することもある。

だから、見るものはあくまでもフィクションであることを肝に銘じなければならない。

 

 

もはや、自分でも何を書きたいのか分からなくなってしまった。

 

とりあえず『にっぽんコミューン』は興味深い本だった。以上。

 

 

<了>