気まずさシンデレラ

ゼミの食事会は盛況のうちにお開きとなった。

同期のひとりが先生や先輩にもグイグイいってくれたおかげで、会話が途切れることがなかった。会話に必要なのは経験ではなく、やはり才能なのではないか。剥き出しのコミュ力に晒されながら、そんなことを思った。

私はといえば、同期の野郎共とともに、光の速さで忘却の彼方へ行ってしまう類いのバカ話に興じていた。これまで話したことのなかった者もいたが、こういう話ならできてしまう不思議。先生や先輩との仲は特に深まらなかったが、楽しかったのは間違いない。

この手の催しに参加するのは初めてだったが、世の大学生はこんなにも楽しいことを頻繁にやっているのか。そりゃドロップアウトもするわけだ。

 

野郎共と別れて駅のホームに向かう。私だけ方向が違うので、ホームも違う。

寂しい気持ちでホームへの階段を降りていると、前方に見覚えのある背中があった。

先生だった。さっきまで一緒だった、先生だった。

声を掛けるべきか、否か。声を掛けたら、同じ電車に乗ることになるだろう。

果たして間が持つだろうか・・・・・・。

否!

反射的に踵を返していた。食事会という魔法は解けたのだ。

楽しかった空気を引きずって調子に乗ると、ろくなことにならない。

もうひとつの階段を、シンデレラのように駆け降りる。

ごめんなさい、先生。人はそう簡単には変わらない。

 

乗り換え駅に着いた。

改札を出ると、後方から聞き覚えのある声が聞こえてきた。

おそらく、同期の女子と先輩だ。ふたりとも食事会では別のテーブルにいた。

挨拶をするか、否か・・・・・・。

否!

声の大きさからしてかなり近いところにいたはずだが、声を掛けられたわけではないのをいいことに、私は聞こえないフリをした。

そそくさと移動して、次の電車を待つ。まさか同じ方向だったとは。

勇気を出して声を掛けるべきだっただろうか。気まずくなる未来が見えていたとしても。

 

微反省しながら電車に揺られる。流石にもう、同じ方向の人間はいなかった。

知り合いが増えたときにいつも思うのは、急に挨拶を交わすようになるのは不自然ではないかということ。

気まずさの本番は、次のゼミかもしれない。

 

今、改めて思い返す。

私は本当に食事会で会話をしたのだろうか。

忘却の彼方へ行ってしまったのではなく、本当に話をしていなかったのではないか。

すべて夢だったのではないだろうか。

 

GとHの間に、熱い水が落ちた。

 

 

今週の読了本

石持浅海さんの『賢者の贈り物』-国内外の名作を題材にした日常ミステリ短編集。

(2011年、PHP文芸文庫)

◎女の子たちと家でパーティー。翌朝、僕のサンダルが消え、女性物の靴が一足。誰かが、酔っ払って間違えたようだ。でも誰も申し出てこない。なぜ?(「ガラスの靴」)◎素性をなかなか明かしてくれない僕の彼女。なぜ?(「泡となって消える前に」)◎フイルムカメラからデジタルカメラに替えた私。しかし妻からカメラのフイルムが贈られて・・・・・・。なぜ?(「賢者の贈り物」)など。思考の迷路にいざなう10の物語。

-裏表紙より引用。

 

上記の三編のほかに、携帯電話の代替機にチャージされていた電子マネーの謎に迫る「金の携帯 銀の携帯」、“後任の社長には、君たち取締役の中から『最も大きな掌を持つ人物』を据える”ーーそのジャッジを任された社外取締役の苦悩を描いた「最も大きな掌」、絶対にバレないカンニングの方法を編み出した高校生が予期せぬ事態に見舞われる「可食性手紙」、“この箱を開けてしまったら、もう二度とあなたとは会えなくなるでしょう”ーー青年が密通相手からのプレゼントの謎に挑む「玉手箱」、ワインにハマってしまった味オンチの男にワインをやめさせる方法は?ーー「経文を書く」、失恋のショックでやけ食いをする女性が“優しい罠”に嵌まる「最後のひと目盛り」、株を保有する会社の不穏な情報を耳にした男が友情のために奔走する「木に登る」の七編が収録されている。

 

イソップ寓話「金の斧 銀の斧」「旅人と熊」、童話「シンデレラ」「浦島太郎」「人魚姫」、ギリシャ神話「黄金の林檎」、童謡「やぎさんゆうびん」、O.ヘンリーの小説「賢者の贈りもの」、「最後のひと葉」、怪談「耳なし芳一」が取り込まれた十の物語は、それだけでもかなり異質な作品だが、連作短編集ではないにもかかわらず、すべての物語に「磯風(いそかぜ)」という女性が登場する点で、より異質な作品になっている。

作品ごとに「磯風」の年齢や職業、物語における役割(出題者、探偵役など)は異なっており、すべての「磯風」が同一人物とは限らない(「泡となって消える前に」では「磯風鈴音」というフルネームが明かされているが、そのほかの話では「磯風」としか書かれていない)。

 

「磯風」を「いそふう」と読めば「イソップ」と語感が近くなることから、彼女の存在はフィクション性を高めるための仕掛けだと捉えることができる。だが、すべての話に寓話よろしく教訓があるわけではなく、日常に放り込まれた謎や問題が描かれていることからも、フィクション性を強調する意義は薄いように思える。

そこで「磯風」が同一人物である前提に立つと、“もうひとつの物語”が見えてくる。

私がその可能性に気付いたのは「玉手箱」を読んだときだったが、最後まで読んでも私の推理が正しいかどうかはわからなかった。だが「磯風」の仕掛けは「解説」でも仄めかされていたので、当たっている可能性は高そうだ。

 

「磯風」を同一人物として読むか否かで読後感がガラリと変わる、奇妙な一冊だった。

 

日常ミステリの形をとることによってより濃厚になった、石持作品特有の論理性、状況の特殊性も堪能することができる醍醐の一冊。気になった方は是非。

 

 

今週の些事

・電車で乗り合わせた人と、リュックと靴が同じだった。

・路上で堂々と立ち小便をするおじさんを見た。

 

 

<了>