■Ⅴ~証拠はバックに

1

いつもより早い電車に乗れた。

飲みに行ったところでもはや咎める人間はいないのだが、身体は空の家に向かっていた。

先頭車両の座席に座り、文庫本を開く。

疲労のせいか、意識が文字を上滑りする。

 

一瞬だけ意識が飛んだ。

現実に戻るにつれて、クチャクチャという不快な音が聞こえてきた。

目線を上げると、目の前に男が立っていた。

右手で吊り革を掴み、左手には棒アイスを持っている。

いくら暑いとはいえ、電車の中でアイスを食うなんて非常識な奴だ。

しかも座っている人間の目の前で。

 

チョコレートでコーティングされているバニラアイス。溶け始めているのが目に見えて分かる。

嫌な予感がした。席を立とうとした、その時だった。

男の手元から何かが落下した。

ポトッという感触が革靴越しに伝わってきた。

足下を確認すると、右足の甲にチョコの破片が載っていた。しかも、かなり大きい。

こいつ!

男をキッと睨みつける。しかし、視線は合わない。

破片の大きさからして、落ちたことに気付いていないはずはない。

知らんぷりを決め込んでいるとしか思えなかった。アイスはすでに完食している。

男の靴をつま先でつついて抗議したが、奴は足をどかしただけで下を見ようとすらしなかった。

ましてや謝罪などあるはずもなかった。

 

2

自分でも驚くほどの憎悪が渦巻いていた。

疲労とストレスも相まって、殺意は簡単に生まれた。

降車駅が同じだったら、こいつを殺そう。

限りなく低い可能性に矛を向けていた。

 

悪魔が微笑んだとでもいうべきか、殺害のチャンスはあっけなく訪れた。

降車駅どころか、改札も、家の方面まで同じだった。

跡をつけながら、殺意が満ちたり引いたりするのを感じていた。

鼓動が高鳴る。完全に悪魔に魅入られていた。

 

やや古めのアパートの二階、手前から二番目の部屋。

奴が鍵を開ける様子を窺う。

ガチャリという音がした。

大きく開かれたドアはひとりでに、ゆっくりと閉まっていく。

完全に閉まる直前に手を入れ、部屋に身体を滑り込ませる。

そして、手に持っていたリュックの肩紐を、靴を脱ごうと背を向け前屈みになっている男の首に掛けた。

 

全力で上に引っ張る。上背ではこちらの方が有利だ。

そのまま自分の身体を反転させ、背中合わせのストレッチのような体勢で奴を担ぐ。

 

断続的な呻きが止んだ。

奴は完全に動かなくなった。

 

物になった途端、人は重くなった。

身体を左に傾け、死体を滑り落とす。

ハンカチでドアの指紋を拭い、凶器のリュックを持ってアパートを後にした。

自宅である一軒家に帰る。現場からは遠すぎず、近すぎない距離にある。

 

人を殺した。

 

微かな快感と確かな恐怖が訪れていた。

 

3

まずは凶器の処分だ。

昔使っていた書類カバンを引っ張り出し、リュックの中身を移し替える。

空になったリュックは、処分する予定の衣服が大量に入っているポリ袋にうずめた。

気休めの偽装工作だったが、しないよりはマシだった。

人を殺したにもかかわらず、明日も普通に会社に行こうとしている自分がいる。

 

もう、どうなってもいいはずなのに。

 

コップ一杯の水道水を飲み干し、一息つく。シャワーを浴びて、酒を飲もう。

シンクの蛇口からポタポタと水が垂れる。

奴の死顔。溶けていくアイス。

その時になって、革靴のことを思い出した。

急いで玄関に行く。

三足ある革靴の左端。さっきまで履いていたものだ。

チョコレートは溶け、乾燥して痕になっていた。

 

靴磨き用の布で擦ると固まりはほとんど落ちたが、それでも輪郭は残っていた。

不慣れな作業だから勝手が分からないが、とりあえず磨いた。

磨き続ければ成分ごと隠滅できる気がした。

無心になれる作業を、身体は喜んでいた。

 

4

その時、リビングでインターホンが鳴った。

「はい!」

虚を突かれて、思わず返事をしてしまった。

「・・・・・・」

何やら言っているようだが、声が小さくて聞き取れない。

こんな時に誰だ。

下手なことをして、怪しまれても困る。

 

靴を元の位置に戻し、仕方なくドアを開ける。

「どなたですか」

そこにはひとりの制服警官がいた。門柱の前でインターホンに話しかけている。

こちらに気付いた警官は言った。

「突然すみません。K県警中央署○○交番の剣崎です。少しお話よろしいでしょうか?」

話とは何だ。まさか事件のことか。いくらなんでも早すぎる。

動揺を気取られぬように「どうぞ」とだけ言った。

 

あくまでも自然な感じで、玄関での応対に持ち込んだ。

「話って何ですか?」

「実は最近、県内で不審人物の目撃情報が多発していまして、パトロールを強化しているんです」

「そうなんですか。ですが、どうしてウチに?」

「お子様がいらっしゃる家庭には直接訪問をして、市の防犯メールへの登録を今一度お呼びかけしている次第なんです」

「そうでしたか。ですが、ウチにはもう必要ないみたいです」

「と、おっしゃいますと?」

「実は、昨日離婚届を提出したんです。妻と娘は実家に帰りました」

「あ・・・・・・。そうでしたか、それは失礼しました。当方の情報伝達にミスがあったみたいで。警察がこんなことでは、お恥ずかしい限りです」

「直近のことですから、気にしないでください。とにかく、ウチには必要ありませんから」

「そうですか。それでは失礼します」

言外に匂わせた“帰ってくれ”というニュアンスを感じ取ったのか、剣崎は暇乞いをした。

が、申し訳なさそうに再び口を開いた。

「すみません。元奥様のご実家はK県内でしょうか?」

「そうですが」

「お手数ですが、ご住所をお教え願えないでしょうか。今なら該当地区の担当者への連絡も間に合いますので」

「分かりました。確かメモがあったはずなので探してきます」

 

思っていたよりも時間が掛かってしまった。メモを片手に玄関に戻る。

「お待たせしました。こちらです」

どうも、と言うと剣崎はメモの内容を手帳に書き写し始めた。

「良い革靴ですね」

手を動かしながら剣崎は言った。

「ああ、どうも」

「特に一番右の、これ。イーニアスですか?」

ドキリとした。さっきまで磨いていた靴に話が及んだからだ。

「そうですけど」

「やっぱり良いですよね。私も早く官給品を卒業したいものです」

この話題は終わらせるべきだ。

「そうですか。あの・・・・・・、終わりました?」

「ああ、失礼しました。これ、お返しします」

 

用は済んだはずなのに剣崎はなかなか帰ろうとしない。

「あの、まだ何か?」

「実はついさっき連絡がありましてね、この近所で変死体が発見されたそうです」

時が止まった。あまりにも早すぎる。

 

「事件ですか?」

思わず聞いてしまった。

「どうやらそうみたいです。臨場している知り合いの刑事に確認を取りました」

「僕なんかに話しちゃって大丈夫なんですか?」

「犯人が逃走しているため、すでに情報は公開されています。それに、あなたの耳に入れておくべきかと思いまして」

 

どういうことだ。

疑問が顔に出ていたのだろう、剣崎は付け加えた。

「いや、てっきり外出なさるのかと思いまして」

「違いますけど。どうしてそう思うんですか?」

「インターホンを押した時、ドア越しにすぐに返事があったからです。てっきりインターホン越しの通話になると思っていたので少し驚きました。ですが、出てきたあなたがワイシャツ姿でしたので、コンビニにでもいらっしゃるのかと思い直しました。しかし、私の早とちりだったようです。・・・・・・失礼ですが、あの時あなたは玄関で何をなさっていたのですか?」

頭が回転を強いられている。ここで下手に嘘を吐くのは得策ではない。

「靴を磨いていたんです。仕事終わりの日課なんです」

「そうですか。今日磨いたのはこのイーニアスでしょうか?」

「ええ、その日履いた靴を磨くんです」

「しかし、このイーニアスは他の二足に比べて光沢が強い気がするのですが、どうしてですか?」

いちいちしつこい奴だ。

「逆に、どうしてそんなことを聞くんですか?」

「どうしてだか気になってしまうんです。この靴はいつもとは違う人物によって磨かかれた。あるいはいつもより入念に磨かれた。どちらですか?」

ある意味で核心を突く質問だったが、前者は事実でもある。

「イーニアスを磨いたのは僕です。他の二足は出ていく前に妻が磨いたものです。これで満足ですか?」

「なぜ日課だと嘘を吐いたんですか?」

「嘘ではありません。“今日”からの日課です。確かに、僕はこれまで自分で靴を磨いたことはありませんでした。それが恥ずかしくて誤魔化してしまったんです」

「・・・・・・しかし、よく覚えていらっしゃいましたね。靴を磨くことは日常生活のタスクのなかでも忘れがちになるものです。習慣のない人間にとってはなおさらです」

「靴を脱いだ時に、ちょうど思い出したんです。だからすぐに磨いたんです」

「だからワイシャツ姿だった訳ですね。ところで、バッグはどうなさいました?」

「は?」今度は何を言い出すんだ。

「通勤バッグですよ。あなたのおっしゃる通りなら、ここにバッグが見当たらないのはおかしい」

どうする。どう答える。

「・・・・・・あ、そうでした。リビングにバッグを置いた時に靴磨きのことを思い出したんでした」苦しい答えだ。自分でもそう思う。

「よろしければそのバッグを見せていただけませんか?」

何かが切れる音がした。

「どうしてそこまでしなければならないんですか!」

「実はですね。検死の結果、例の殺人事件の重要証拠がバッグだと判明したんですよ。せっかくですから、あなたの疑いを晴らして差し上げてから帰ろうと思ったんです。よろしいですか?」

「“せっかく”で疑われたらかないませんよ!・・・・・・ちょっと待っててください」

 

凶器まで判明していることには驚いたが、これは無実を印象付けるチャンスでもある。

用意していた書類カバンを剣崎に突き付けた。

「どうですか。これで人が殺せますか!」

剣崎はカバンをためつすがめつしていたが、やがて言った。

「そうですね、確かにこれでは人は殺せません。しかし、あなた、どうしてバッグが凶器だと知っているんですか?私は“重要証拠”としか言っていませんよ」

時が止まった。剣崎は沈黙を無視して続けた。

「被害者の死因は頚部圧迫による窒息。首に残っていた特徴的な絞め痕から、凶器はショルダーバッグかリュックサックの肩紐のような、肩当ての付いた紐のようなものだとの見立てがなされたようです。確かにあなたのおっしゃる通り、凶器はバッグです。しかし、私から事件を知らされた“はず”のあなたがそのことを知っているはずがない。知っているのは犯人か、目撃者か、少なくとも事件の関係者でしかありえない」

「・・・・・・」

「人を絞殺しようと思った時、凶器にバッグを選ぶ人間はあまりいません。おそらく犯行は計画的ではなく突発的なものだったのでしょう。つまり犯人は犯行時、肩当て付きの肩紐のあるバッグを持っていた。死亡推定時刻からも、帰宅途中の人間である可能性が高いと思いました」

「・・・・・・それだけですか。それだけのことで僕を逮捕できるんですか?」

「そんなセリフをおっしゃっている時点であなたはクロだと思うのですが、お認めいただけませんか?」

「納得できません。ショルダーバッグやリュックを使う人間なんて、この地区に何人もいるのに、どうして僕なんですか?あなたのしつこさは、僕が犯人だという前提に立っているからこそのものだと思います。だったら、その前提の根拠を、証拠を示すのが筋じゃないんですか?」

先ほどまでの饒舌が嘘のように、剣崎は押し黙った。

憐れむような表情が一瞬浮かび、やがて言いにくそうに口を開いた。

「・・・・・・ワイシャツを脱いでいただけますか。証拠はそこにあります」

言われた通りにすると、脱いだシャツの中央ーー背中のちょうど手の届かない部分ーーに茶色いシミが付いていた。よく見ると、指紋のようにも見える。

「あなたがメモを探しにこの場を離れた時、そのシミが目に入りました。明るい茶色だったので、チョコレートのシミだと思いました。なぜ背中にシミが付いているのか、気になりました。その直後でした、事件の報せが来たのは。すぐに、臨場しているであろう知り合いの刑事に連絡を取りました」

「・・・・・・」

「被害者の左手の指にはチョコレートが付着していたそうです。現場にはアイスの棒や包装が落ちていたそうですから、被害者は殺害される直前にチョコアイスを食べていたのだと思います。被害者の利き手は右手でしたが、左手の指のチョコレートは擦れていたそうです。だったら、それらが凶器や犯人に付着した可能性は高い。あなたの背中のシミに疑惑を抱いた私は、それらしい口実をつけて、もう一度背中を確認するチャンスを作りました」

背中が汚れたとしたら、おそらく死体を下ろした時だ。

アイスが溶け始めていたからこそ革靴が汚れるはめになったのに、なぜ奴の手が汚れている可能性に思い至らなかったのか。

「じゃあ・・・・・・」

「ええ、磨かれ過ぎたイーニアスもバッグも気にはなりましたが、あなたはそんな工作をするよりも先に着替えるべきだったんです。チョコレートでスタンプされた指紋を消すために」

訪れるであろう罰への恐怖よりも先に、恥ずかしさがこみ上げてきた。

 

5

玄関を出ると、門の前に一台の乗用車が止まっていた。

「お待たせしました」

剣崎がそう言うと、車にもたれていた中年の刑事は片手を挙げた。

 

後部座席に乗り込む。中年刑事の指示で車は発進した。

ふと、右ももに違和感を覚えた。

ポケットを探ると、一枚の紙が出てきた。

それはステッカーだった。『夢見るドリ子のドリームセラピー』というロゴがプリントされている。

剣崎の顔が浮かんだ。きっと、彼の仕業だ。

手の中でステッカーを弄ぶ。

そうすることで、答えが見つかるような気がした。

 

 

<了>