岩下悠子と“一途”

一途(いちず)

他のことには全く心を向けず、こうすべきだと信じたことのみを追求する様子。

新明解国語辞典 第七版 78頁

 

『相棒』や『科捜研の女』でお馴染みの脚本家・岩下悠子さんによる小説を読んだ。

 

まずは新潮社の『水底は京の朝』(2017年)。デビュー作。

人見知りの新人女性監督と人間嫌いな脚本家。連続ドラマを撮影中の二人にせまる邪な闇と謎。かぶった者を乱心させるという鬼面、盗まれた呪いの人毛かつら、一瞬にして眼前から消えた祭り――。名女優や片腕の男たちも巻き込み、虚構と真実の境界線で二人が辿りついた秘密とは? 京都の四季が彩る謎が、あなたの目を惑わせる!
岩下悠子 『水底は京の朝』 | 新潮社 書籍詳細ページより

新人監督の美山と脚本家の鷺森が湧き上がる謎を穿つ連作短編集。

美山の秘密に鷺森が迫る「熄えた祭り」、鬼面にまつわる呪いの言い伝えを考察する「鬼面と厄神」、いわくつきの人毛かつらが盗まれた理由を推する「黒髪盗人」、スタジオ跡地で見つかった蝶のペンダントの落とし主を探す「水に棲む」。美山の視点で進む四編は『小説新潮』に連載されたもの。今作には最終話として書き下ろされた「スカーヴァティー」を加えた五編が収録されている。「スカーヴァティー」は鷺森の視点で進み、それまでの話で描かれた、鷺森の美山に対する“激しさ”の理由(鷺森自身の秘密)が明らかになる。

 

過去の出来事や原体験について考えていく話が中心であり、いわゆる「事件モノ」ではない。それゆえに語られた仮説が真実であるとは限らない。しかし信じる者にとって、それは真実であり、ときに救いとなる。「嘘も方便」ではないが、導き出された真実によって人々(美山、鷺森 etc.)の心に寄り添っている点では一種の<ケア小説>であるともいえる。

文中には初見の言葉が多く、途中で意味を調べたり、読みを確かめるためにページを遡ったりすることもしばしば。そういった言葉が舞台である京都の雅やかな雰囲気や、幻想的で曖昧な世界観を成立させている。違和感のないセリフとリズムのよい地の文で構成された今作は、一気読み必至というよりは、じっくりと味わいたいと思わせてくれる小説だった。

美山のセリフで、「○○さあん」という呼びかけがあった。「さーん」の伸ばし棒を「あ」にするだけで可愛らしさが増す。ひらがなの“丸み”のなせる技か。岩下さんより先駆がいるのかもしれないが、天才的だ。他の描写も相まって、美山の脳内配役は上白石萌音に決定した。

 

 

続いて東京創元社の『漣の王国』(2019年)。小説二作目であり最新作。

綾部蓮という青年は、私たちにとって遠い国の王様のような存在だった。神の贈り物と呼ぶべき肉体と才能に恵まれ、美貌をもって周囲の人々を侍臣のごとく傅かせ、それでいて何時も退屈を持て余していた。だから彼が自殺した時、その理由を知る者もいなかった――。ひとりの才能ある若者に羨望を抱いた者や憎悪した者、誰もが彼の年齢を追い越し忘れ去っていくなか、私たちは思い出す。なぜ青年は自ら命を絶ったのか?人生の一時期に齎される謎と恩寵を忘れ難い余韻をもって描き出す、期待の俊英による連作ミステリ。

-カバーそでより

『水底は京の朝』同様、舞台は京都。

「序章」、「終章」の他、四つの短編が収録されている。

「スラマナの千の蓮」

大学水泳部に所属する遠山瑛子は伸び悩んでいた。雑念の元は綾部蓮。瑛子と同期の彼は、恵まれた体躯と水泳の才能を持ち、数々の大会で入賞していた。しかし彼自身の情熱は薄く、定刻に練習を切り上げては女男たちと飲み歩くのが常だった。ある日、瑛子は後輩の猫堂から北里舞が妊娠していることを知らされる。彼女は綾部の現恋人だと瑛子が目している人物だった。猫堂は次の大会で自己ベストを出させることを条件に、瑛子に胎児の父親探しを命じる。父親は綾部ではないのか?そして猫堂の狙いとは?

「ヴェロニカの千の峰」

比叡山を望む岩倉修道院から、ひとりのシスターが書き置きを残して失踪した。森江絹子は何故、姿を消したのか?失踪時の状況に違和感をおぼえた先輩シスターの北里舞は、“秘密のロザリオ”の正体を頼りにシスター森江の捜索を開始する。

ジブリルの千の夏」

子育て中の主婦・朝子は、坂口清人と名乗る人物から、大学時代の友人であるライラ・ミシャールからの預かりものとして“七時三分を指して止まった皿時計”を渡される。時計は何故七時三分を指して止まっているのか?ライラからのメッセージを解読するため、朝子は大学時代の記憶-忌まわしき綾部蓮の記憶を呼び起こす。

「きみは億兆の泡沫」

綾部蓮の三回忌を前に、猫堂は恩師である狐塚と再会する。綾部の死に疑念を抱いていた猫堂は狐塚に仮説をぶつけるが、教授ははぐらかすように、かつて研究室で起きた実験用ウサギ消失事件の話を持ち出す。それは綾部、瑛子、そして猫堂にとって忘れ難い出来事だった。

 

めっちゃオシャレなカバー。

水泳と仏教、キリスト教と仏教、イスラム教と仏教、ウサギとAIDといったテーマの組み合わせが面白い。私も水泳を習っていたが、反復練習が“祈り”と似ているなんて考えたこともなかった。

『水底は京の朝』よりもミステリ度は高めだが、表現の美しさ、幻想的な曖昧さも味わえる。また、大学時代の美山や古美術店<南天堂>の主人といった、登場人物の再登場も楽しめる。

 

※綾部蓮の「蓮」は、正しくは二点しんにょう。

 

岩下悠子と“一途”

岩下脚本の『相棒』には、“人のため”、“より良い世界のため”に罪を犯してしまう人たちが度々登場する。例えば、「犯人はスズキ」(S5#3)の柳瀬町内会の人たちや、「白い声」(S6#18)の中津留健吾がそうだ。私には、彼らの行動が理解できないことがあった。幼い娘を殺された父親のためとはいえ、犯罪に加担してしまうものなのだろうか?現行の解剖制度に一石を投じるためとはいえ、自ら命を絶つことができるものなのだろうか?といった具合に、私は“善性の動機”というものに懐疑的だった。

 

そんな私の見方を変えてくれる作品に出会った。昨年放送された「眠る爆弾」(S21#5)だ。大学研究室に所属する女子学生が、予算不足を世に訴えるために劣化したバルブを用いて事故に見せかけた爆発を起こし、事情を知らないゼミ仲間の男子学生が、真実を知るために教授を監禁するという話だった。女子学生は自身が起こした爆発に誤って巻き込まれ死亡していたのだが、物語の中心ともいうべき爆発事故の真相が自作自演だったというのは、傍から見ると常軌を逸している。

しかし、これまでの作品とは違って、この作品では彼女が常軌を逸した思考に至るまでの過程がイメージ映像として描かれていた。苦悩する彼女の映像をバックに、実験ノートの隅に綴られた想いが、浮かび上がる筆跡とともにナレーションされたのだ。思考の過程を描いた構成や演出によって、私の動機への違和感は徐々に薄れていった。

 

さらに、件の男子学生や教授などが彼女を「一途」だと評する場面があった。

思えば岩下作品に登場する人たちは皆、一途だった。常軌を逸しているように見える行動は、彼らなりの最善の選択だった。ここでいう“最善”には“良い”も“悪い”もない。義憤に駆られてする行動も、ちょっと得をしようとした末の行動も、その人にとっては“最善”であることに変わりはなかったのだ。

そう考えると、“世のため人のため”という動機を他の利己的な動機とあえて区別する必要性は薄いように思えてきた。

真実や動機は、究極的には当事者だけのものだ。これは極めて単純だが、重要なことだ。

ある程度の説得力は必要だが、だからといって人の数だけある動機を安易に“薄い”などと切り捨ててはいけないのかもしれない。

 

“一途”という共通点に気付いたことで、私の岩下作品への見方は変わった。柳瀬町内会の人たちも、中津留健吾も、「殺人シネマ」(S5#19)の赤井のぶ子も、「正義の翼」(S6#8)の南れい子も、「ディアボロス」(S20#14)の一之瀬春臣も、「椿二輪」(S21#13)の牧村智子や大宮アカネも、皆、一途だったのだ。そして彼ら以外にも、一途な人はたくさんいる。

『水底は京の朝』や『漣の王国』にも一途であるがゆえに周囲に理解されなかった人たちが登場する。

 

理解できないことを拒絶するのではなく、何故なのかを考え、楽しむぐらいの心持でいるべきなのかもしれない。

 

『相棒』シリーズ 岩下悠子 作品リスト

 

 

余談だが『相棒』に子どもが出てくる話が多いのは、子どもの場合は“一途さ”(無茶な行動)が違和感になりにくいからではないだろうか。

 

 

 

aibouninngenn.hatenablog.com

 

 

<了>