なんか、死ぬかと思った。

朝八時過ぎ。鈍行列車はいつも通りにやってきた。

迷わず乗り込み、ドア付近に陣取る。

いつも通りだ。

 

十分足らずで列車は乗り換え駅に到着した。

満員の特急列車は既に到着しており、震える車体は貧乏ゆすりをしているようにも武者震いをしているようにも見えた。

鈍行の乗客は皆、小走りで向かいの特急に乗り込んでいった。

私もいつもならそうしていた。

 

しかし、その時は足が動かなかった。

特急に乗り換えるか、このまま鈍行に乗り続けるか。

この選択がひどく大きいもののように思われたのだ。

まるで生死を分ける二択のように思われたのだ。

 

突如訪れた理不尽な妄念を振り払う間に、特急は発車してしまった。

緊張状態から解放された私は手汗をズボンで拭い、手近のシートに腰を下ろした。

間もなく鈍行は発車した。車両に私以外の乗客はいない。

いつもの時間に着くことはできないが、その日は時間にゆとりがあった。鈍行とはいえ、遅刻することはないだろう。

 

開き直った私は文庫本を開いた。

しかし、意識が文字を上滑りしてしまう。

これが先の妄念のせいなのか、単に気配が静か過ぎるせいなのか私には分からなかった。

 

列車は私がいつも見過ごしていた街々を丁寧になぞっていった。

私は読書をするポーズのまま、しばし黙考する。

 

思えば私は鈍行列車が好きだった。

高校時代、模試や英検の日はあえて鈍行に乗ることで心の均衡を保っていた。

遅刻する勇気は無いので、もちろん鈍行に乗る前提でスケジュールを立てていた。

この無意味な遅延行為は、しかし私を支えてくれた。

動き出した列車という不可抗力に運命を預け、束の間、心を軽くしていた。

 

目的地が近づくにつれて、乗客は増えていった。

景色が見慣れたものへと変わり、列車はついに目的地に着いた。

いつもとは違う顔ぶれとともに下車した。

いつもと同じ風景だった。

 

私は死ななかった。特急に乗った人たちも死ななかった。

 

降って湧いた妄念は私をときどきおかしくさせる。

 

人生は選択の連続だ。

人は自身が思う以上に多くの選択をしている。

かくいう私の単調な日常も無数の選択に支えられている。

 

 

 

葉村晶、第三弾。文春文庫の『悪いうさぎ』(2004年)。シリーズ初の長編。

女探偵・葉村晶は、家出中の女子高校生ミチルを連れ戻す仕事で怪我を負う。一ヶ月後、行方不明のミチルの友人・美和探しを依頼される。調査を進めると、他にも姿を消した少女がいた。彼女たちはどこに消えたのか?真相を追う晶は、何者かに監禁される。飢餓と暗闇が晶を追いつめる・・・・・・好評の葉村晶シリーズ、待望の長編!

-裏表紙より

「前哨戦」、「序盤戦」、「前半戦」、「中盤戦」、「後半戦」、「終盤戦」、「前哨戦再び」の七部からなる長編小説。卯年にふさわしく、章扉にも可愛いうさぎのイラストが描かれている。イラストレーターの杉田比呂美さんは著者の本のイラストのほとんどを手掛けている。

 

今作では女子高生失踪事件、殺人、監禁、結婚詐欺といろんな事件が次から次へと起こる。

葉村の不運っぷりにも拍車がかかっている。物語冒頭で既に刺され、足の甲を骨折して入院している。その後も治りかけた足を踏まれたり、家の前にゴミを撒かれたり、監禁されたりと盛りだくさん。怪我した回数をカウントして記事にしようと思ったが、キリがなくて諦めたほどだ。

しかし、この探偵はとにかくタフだ。

あらゆる困難に毒づきながらも立ち向かう。調査員としての性、プロ意識がすごい。

 

クスっと笑えてゾッとする葉村晶シリーズは長編も面白い。

 

 

 

「め」



<了>