点食

終業のチャイムが鳴った。即席の友人はそそくさと去り、やはり「ペアワークの相手」以上の意味を持たなかった。一人教室に取り残された私は、壁を見つめながら弁当をつつく。壁の一点を見つめながら食事をすることを、私は勝手に「点食(てんじき)」と呼んでいた。昼食中、喧騒に包まれている教室のどこに視線をやれば不自然に見られないか。その問いに対し、高校時代の私が出した答えが「点食」だった。今にして思えば、スマホをいじるでもなく、ただ目の前の壁を注視するという行為は「不自然」極まりないが、クラスメイトの視線を視界に入れるよりはマシだったのだ。傍目には吐きそうなのを我慢しているようにしか見えないこの食事法の唯一のメリットは、思考に集中できることだ。「クラスメイト」が曖昧な大学において、未だに「点食」を続けているのはそのためだった。

こんなことを考えながら食事をするのは消化に悪かろうが、その分咀嚼の回数が増えるのでプラスマイナスゼロ。というのが私の見解だ。

最後の卵焼きを飲み下し、左手に視線を移す。十二時半。いつも通りのタイムだ。ささやかな充足感と、顎関節症気味の顎への不安を吐き出しながら、私は教室を後にした。

 

押すのか引くのか一瞬迷ってから扉を開けると、大教室の片隅にMr.タンポポはいた。いつも通りだ。一席開けた隣に腰を下ろす。彼は先週配られた平安京についてのレジュメを見ていたが、私に気がつくと、横目で(それでいて相手が確実に私であるかを確認してから)軽く会釈をした。筆箱を取り出しながら、私も会釈を返す。それ以上の挨拶や会話は生まれない。

私と彼の関係は少し特殊だった。

 

左から視線を感じたので、そちらを見たが、彼は相変わらずレジュメを注視していた。しかし、その視線はヘッダーのあたりを曖昧に捉えているだけで、とても予習や復習をしているようには見えなかった。

 

しばらくすると(といっても数分だろうか)、左から一冊の本が差し出された。帯はついているものの、年季が入った新潮文庫森見登美彦の『太陽の塔』だった。

私の大学生活には華がない。特に女性とは絶望的に縁がない。三回生の時、水尾さんという恋人ができた。毎日が愉快だった。しかし水尾さんはあろうことか、この私を振ったのであった! クリスマスの嵐が吹き荒れる京の都、巨大な妄想力の他に何も持たぬ男が無闇に疾走する。失恋を経験したすべての男たちとこれから失恋する予定の人に捧ぐ、日本ファンタジーノベル大賞受賞作。

-裏表紙より

 

『美女と竹林』は読んだことがあったが、これは読んだことがなかった。あらすじから「至高の陰(いん)」の気配を感じ取った私は、暗黙の了解のもと、決して分厚くはないその文庫本をカバンに仕舞った。それから我々は「『美女と竹林』は小説なのかエッセイなのか」について、始業のチャイムが鳴る五秒前まで議論していた。

 

オススメの本をプレゼンするのではなく、現物を持参するというやり方は大胆かつ巧妙だ。言うなれば、ひとんちの犬にフリスビーを投げるようなものだ。犬には他人が投げたフリスビーを咥えて戻ってくる義理はない。しかし、本能には逆らえない。私は基本的に、人から紹介された物には見向きもしないのだが、現物を拒絶するほど野暮ではない。本能とはすなわち人情だ。

無言で本を貸し、次会う時に無言で返す。口約束も感想戦も省かれた、極めてエコなサイクルは常に一定の方向に回っていた。Mr.タンポポはたとえ現物を持参されても他人の勧めは受けないという、高尚極まりないスタンスをとっていたし、私は私で他人に物を貸すことに人並みの抵抗を覚える質だからだ。フリスビーを投げるときには、常にリスクがつきまとう。

 

私の直感通り、『太陽の塔』は「至高の陰」に満ちた小説だった。「至高の陰」が何なのかは、この小説や似鳥鶏の『100億人のヨリコさん』を読めば何となくわかるはずだ。貧乏学生が信じられないほどボロい寮で仲間とともに妄想を開陳したり、出所不明のキノコを食べたり、時にはどんな人よりも大胆な騒ぎを起こす。簡単には体験できず、かといって「実際に体験したいか」と問われれば答えに窮してしまうような生活を描いた小説の雰囲気を、私は勝手に「至高の陰」と呼んでいる。これは客観的に見れば「陽」寄りの「陰」なのだ。だから私なんぞがその領域に達することは不可能なのだが、小説は夢を見させてくれる。読んでいる間、調子に乗った私は、あたかも同じ寮生のような顔をして彼らの日常を追体験する。読み終わった後は、土曜の朝のような恍惚と、日曜の夕方のような絶望に同時に襲われる。それが読書の醍醐味だと知ったのは、つい最近のことだ。

 

二日後、私はMr.タンポポに『太陽の塔』を返却した。言葉は要らなかった。クリスマスシーズンにこの本を貸してくれた彼に、一瞬愛しさを感じた。犬は私ではなく彼の方だったのかもしれない。

 

イブイブは彼とカラオケに行き、クリスマス翌日はヴィレヴァンに行った。

 

これからも、この交わりは続くだろう。

 

 

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岸辺露伴は動かない』を見た。面白かった。

www.nhk.jp

至高の数字「3」

 

 

<了>